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そして出産
2014 / 04 / 17 ( Thu )
ユウイチは、4月14日午前4時15分、妊娠40週目、つまり予定日当日に3158グラムで産まれました。コウは、7月18日午前8時29分、こちらも予定日当日の出産で3358グラム。私の身体って、とても原始的なようで、どちらも潮の満ち引きだか月の満ち欠けにぴったり呼応したようです。体重も、長男のユウイチのときで13キロ、次男のコウのときは16キロも増加。当時の妊婦マニュアルには体重は8キロ増にとどめましょうとあったのに。食べたら食べただけきちんと吸収される健康体質のようです。


自然分娩でした。ユウイチのときは13時間、コウの時は8時間、陣痛と闘いました。分娩台の上でも。それまで、話には十分聞いていたので相当、覚悟していたのですが、、、。実際は、思ってたほど痛くはありませんでした。私は子供の頃、よく母世代から、出産がどんなに大変でどれだけ死ぬ思いをしたかという話をきかされました。三途の川の一歩手前まで行った、とか、出産を経験すればもう何も怖いものはない、なんて話もよく耳にします。


ですが。あれは、かなり脚色が入っていますね、たぶん。なにしろ、経験したものにしか分からないことなので、みなさん軽く口裏合わせてるんじゃないかと思います。そもそも、どんなに痛かったかなんて覚えてないでしょう。実際、私はすでにすっかり忘れています。たぶん、子供たちに対しては親のありがたみを教えるために、そしてお父さんたちにはお母さんの価値を十分に分かってもらうために。みんなで話しを大げさにしてるんです。だって、私も子供たちに、死ぬほど大変だったって言ってますから。


ちなみに、コウの時は先に破水。朝7時頃、病院に入ったら、看護士さんたちに「まだ子宮口がしっかり開いていないよ。ムリしていきまないように。まあ夕方かな」と言われました。それなのに。二人目ということもあってベテラン気取りだった私は、せっかくのアドバイスにも耳を貸さず、「だって、めんどうじゃん。早く終わらせたいっ!」と、がんばってしまいました。おかげで数時間後には生まれましたが、おまけで大きな大きなDIができちゃいました。それで結局、コウが幼稚園に入ったときを見計らって手術するはめに。この時期の1週間の入院は、それなりに大変でした。私じゃなくて周りが。看護士さんの助言には、必ずきちんと耳を傾けましょう!


出産は、実家の近くの病院で。ユウイチもコウも火曜に産まれたので、ダンナさんは立ち会いはおろか、週末まで会いに来れませんでした。週末になって、ようやく現れたのですが、予測していたより少し遅かったのでどうしたのかな、と思ってたら、タクシーのおじさんに頼んで花屋さんに寄っていたのだそうです。かわいい花束を持って、紅潮した顔で現れたダンナさん、とても素敵でした。
10 : 24 : 27 | 母になる | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
SOHOの取材を受ける
2014 / 04 / 17 ( Thu )
[英検1級玉砕]

さて。働く母がダイッキライで早々と結婚した私ですが。時間をやりくりする彼女の背中を見て育った私には、時間を無駄にすることに、とてつもない罪悪感があります。お金より時間の方が大事だと思ってるかも。それに、ダンナさんに会ってから常に勉強しているので、勉強をしないでいるとストレスを感じる体質になってしまってました。赤ん坊が生まれてきたら、きっとじっくり何かに取り組む時間はないだろうし。今がチャンス。結婚直前のテンションを取り戻して、今度は英検1級を目指そう。


そう決めて、参考書や単語帳一式を買い込んでみました。しかし・・・単語覚えるの面倒で。準1級のときは米国行くから!しゃべれるようになりたいから!という、はっきりしたモチベーションがありました。でも。なんのためにとる必要があるんだろう。とか、言い訳ばっかり探してるうちに結局まったく進まず。申し込みしたら少しは勉強するかと思ったら、それもなく。案の定、玉砕でした。

かといって何もすることがないので。インターネットでダラダラと毎日遊んでました。東京のベンチャー時代に翻訳も少ししていたのでウソじゃないし、と思い、自称翻訳者として自分のホームページも作ってみました。当時は、まだまだ米国人モードだったので実名で。「翻訳者・寺田美穂子のページ」みたいなタイトルでした。日本ではハンドル名とか使うのがすでに一般的でしたが、営業ツールとして作るのにウソの名前じゃ意味ないじゃん、て感じです。


1997年の話しなので。まだようやくインターネットエクスプローラーが出たころ。インターネットにアクセスするのにも高いお金がかかっていて。ホームページ立ち上げるのもタダじゃなかったはず。ですから、ホームページ作っただけでいくつかお仕事も来ました。また、コンピュータのマニュアルの和訳の仕事なんかも、ぼちぼち入り始めてました。Installという英語に対して「インストールする」でなく「導入する」とか「置く」みたいな訳語も存在した時代。ソフトウェアをインストールする、という概念を知っていることが価値がありました。


妊娠6か月の頃。ホームページ経由で雑誌社さんから連絡がありました。SOHOコンピューティングという雑誌で、地方でSOHOやってる人を紹介するコーナーに出てもらえないか、ということでした。SOHOというのは、Small Office Home Officeの略で、つまりは在宅ワークってことです。地方で翻訳SOHOやってる人で&ホームページ作ってて&実名出してる人は東京に数人と私と四国地方に1人でした。なので、四国より仙台の方が近いしってことで私になったのでしょう。ニッチなことをやってると、こういう面白いことがあるんですね。


「こんにちは~。お邪魔します」

そして、ライターさんという方とカメラマンさんという方が社宅にやってまいりました。確かに、それっぽい出で立ち。これがライターさんっていう人かあ。カメラマンさんってすごい大きなカメラ肩からかけるのね、と、こっちの方がいろいろお聞きしたいぐらい。インタビューはリビングじゃなくて居間。東京に引き続き仙台でも昭和チックな官舎です。これまでの経緯を話した後、近くの神社に行って写真を撮りました。妊娠6か月の大きなお腹で。官舎の敷地内で撮影してるところを見られると何かと都合が悪いかなと思って。雑誌そのものは、ご近所さんの目にはとまらないと思われるのでOKです。


雑誌が店頭に並んだときには、実家両親大喜びです。私の知らないところで九州の親戚にまで連絡したりなんかして。ダンナさんも。それまで、「右も左も分からない子どもを米国連れて行くと言って拉致した犯罪者」扱いされてたので。やっぱり嬉しかったみたい。見開き4ページだけじゃなく、表紙にも、どーんと載りました。大サービス。ありがとうございます!


すると、今度は、その雑誌を観た電通の方から連絡が来ました。そのライターさん経由で。NTTの広告に出てくれないか、だそうです。SOHO実践中の主婦という役でした。そのときは大所帯。電通の人とNTTの人と撮影スタッフの人とライターさんと。7-8人。NTTのお2人は、きっちりスーツを着ていらっしゃったけど、ギョーカイのみなさんは40代ぐらいなのに髪が茶色くて。バブルの頃、ブイブイ言わせてたんだろうな~。本物だ~、と、まじまじ観察してしまいました。NTTのイメージキャラクターだったスマップには会ったことあるんですか?と聞いたら、「ありますよ」と苦笑されました。恥ずかし・・・。


広告は、新聞各社の全国版に1面全面で載りました。スマップの中居くんがノートパソコンを手に持っていて、その画面の中に私が笑顔でSOHO仕事。インターネットのおかげで地方でも主婦でも子持ちでもSOHOできます。といったメッセージ。こちらは、さすがに反響が大きく、結構いろいろな人から指摘されました。でも特に仕事につながった、とかいうことは無かったです。面白かっただけ。十分だけど。
10 : 23 : 33 | 翻訳者に? | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
妊婦時代
2014 / 04 / 17 ( Thu )
とは言っても、決して嬉しくないわけではなく。もう結婚5年目になってたし、いい加減、親にならないとね、、、。半ば義務感が支配的でした。たぶんダンナさんも似たような状態だったと思います。


妊婦中は、マニュアルどおりの生活をしました。規則正しく、運動も適度に。食事は栄養バランスを心がけて。といっても塩分控えめは、あまり守らなかったかも。だってキムチ鍋って簡単な上においしいし。お昼ご飯に、あんパンとか食べると良心がとがめるぶん、その味も極上で、、。


[切迫流産で入院]

ところが。妊娠11週目ぐらいのとき、トイレでおかしなことが起こりました。尿に血が混じってるんです。というか尿じゃなくて月経っぽい。。。出張の多いダンナさんが珍しく家にいるときだったので、事情を説明すると、やっぱりヘンだよね、ということになり、2人してうろたえながら病院へ電話しました。すると至急来るようにと言われたので、着の身着のまま病院へ。診察を終えて廊下に出ると、ダンナさんが看護士さんから入院の荷物の指示を受けたと、軽く動揺してます。


その後、先生が、「切迫流産です」とまず一言。普通に事務的なイントネーションで。先生の話しぶりが「非常に残念ですが」的な感じでもないので希望を持ちつつも、え??流産したんですか??とパニック状態で詰め寄ると、「いえいえ。流産が切迫している状態です。流産したわけではありません。」と、先生の方も少しびっくりしてらっしゃる感じ。妊婦講座や妊婦マニュアル本なんかでも取り上げられているので、知ってると思われてたのかも。そういわれてみれば、見た気がするけど、その時点では、それどころじゃない。「流産が切迫??流産しそうってこと?じゃ、やっぱり流産するんですか?」と、ほとんどイチャモンのように騒ぐわたし。。。


結局、子宮の袋のどこかから少し出血してるけれど、じっとおとなしくしていればそのうち吸収されるでしょう。胎盤付近でもないし、まあ大丈夫ですよ、と説明され、1週間入院していたら本当に吸収されて無事に退院できました。要は、ひたすらじっとしていればOKという症状だったようです(それにしても紛らわしい名前だ!)。一人目だから面倒を見なければならない上の子がいるわけでもないし、親は遠くにいるし。ダンナさんは出張ばかりなので、入院を余儀なくされました。とは言っても、1週間私が寝ていても誰も困らないというのは、ちょっと寂しい状況でした。お見舞いはダンナさんだけだったし。しかも出張の合間だったので少しだけだったし。


退院後は、大きなトラブルもなく、順調でした。普通に健康的な生活を心がけていただけ。早期教育とかも無関心。どうも、うさんくさい感じがして。ただ、妊婦時代に自分がヒステリーを起こすと、羊水のpHが酸性の方に偏って静電気が走ってしまい、赤ん坊がきかん坊になる、という、怪しい都市伝説のような話を真に受けていたので、できるだけ幸せな気持ちでいるよう心がけました。どちらにしても、ストレスのない生活をしていたのでシアワセだったけど。パソコンがいけないという意見も聞きましたが、私はパソコン&インターネットがないと生きていけない人なので妊娠前と同様に、ほぼ1日中パソコンに接する生活。妊婦エプロンは着用しました。あ。でも。体重の増加は妊娠前プラス8キロに抑えてくださいね、と言われていたのに13キロ増。コウのときなんかプラス16キロ。なんとか元に戻りましたが、ほんと体重って減りません。。。


先日、妊婦ママとランチしました。彼女は、最初の出産が予定日1週間前で、いつ陣痛がきてもおかしくない状態。なので家までお迎えに行きました。母子手帳持参で、いつでも病院に送っていくからね、という緊張感のあるお食事でした。


そのときの彼女、本当に美しくて神々しかった。もともときれいな人だけど、それ以上に、なんというか。この10か月、母として生きてきた自信というか、大事に大事に育ててきて、ようやくここまできたぞ集大成だぞ、という、新しい生命に対する責任というか自信というか。もちろん実際は産んでからの方が大変なんだけど。あのときの気持ちを私は忘れてるな、と反省しました。
10 : 18 : 44 | 妊婦時代 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東北へ
2014 / 04 / 17 ( Thu )
それまで自分が東北に住むことがあるなんて、まったく考えたことありませんでした。子どもの頃から、米国に住む日は来るかもしれない&東京は行くかもしれないと思ってたけど、それより北は考えたことなかった。なにしろ父は九州、ダンナさんも九州の人ですから。米国でも東京でも、あともう少しで何かできるかも、と思い始めたところでタイムアウト。またか・・・と、軽く恨めしかった。


でも。そろそろ子ども欲しいなあとも思い出してました。当時25歳。21歳で結婚したというたびに周りがどん引きするので、子どもは平均的な年齢のときに産みたかった。そうすればバレないし(?)。だから、もう少し後でも良かったんだけど。仙台に行くとなったら、じゃいっそのこと、さっさと子育てして次の土地に移るときには存分にしたいことできるようになっておこう、と切り替えることにしました。仕事は、いつ辞めても全然問題ないし。というかすでに会社として機能してなかったし。仙台行くのが決まってから実際に引っ越すまでは半年ちょっとありました。なので早速、子作り開始です。


が。しかし。そんなこと言ってると、子どもってなかなかやってきてくれないものです。我が家はダンナさんの方にも私の方にも、できちゃった結婚カップルがいるので確実に多産系。「よおしっ!」と準備万端状態になった最初の月は、「これで私も、来月の今頃は妊婦だわ♪」とウキウキ。確信に満ちてました。妊娠をいつ社長に報告しようかしら。つわりになったら、2時間の通勤は、しんどいだろうな。車内で吐いちゃったりするのかな。あ。この人、妊婦さんだ。頑張って通勤してるのね。うふふ~、と道行く人に対して勝手に同士の気分になってみたりして。


でも。1か月目は外れ。2か月目も。そうして3か月目も。半年経った頃は挫折感でいっぱい。いったい私の何がいけないんだろう。この結婚は間違いだったんだろうか。パソコンばかりしているから?通勤時間が長いから?コーヒー飲んでるから?キムチ好きだから?太ってるから???勤務中も通勤電車の中でも、家でも、外を歩いていても、胸にずしんと重みを抱えたままで気が晴れません。新宿駅の激しい人混みにもまれながら&流れに置いて行かれないよう必死に歩きながら。私は、いったい何をやっているんだろう、と無力感に襲われ、帰りの電車の中で目に涙を浮かべる日々が続きました。


そして東北へ。引っ越しすると妊娠するパターンってあるらしいよ、と励まされてたので信じるフリはしてましたが、まさか本当に「当たる」とは!やっぱり東北ついてきたのは正しかった。だって空気きれいだもん、澄んでるもん、ばんざーい!!


、、、と大喜びするかと思いきや、、。妊娠検査薬で陽性反応を見た瞬間の私の正直な気持ちは、「挫折感」でした。これで私の自由は無くなる。もう終わりだ。残りの人生は、すべて子供たちに捧げるんだ。犠牲と忍耐だけの日々が続くんだ、という「確信」でした。8月5日の大花火の夜です。今でもはっきり覚えています。ダンナさんがアメリカ出張中で1週間の留守。私は、熱っぽくて、胸にズキズキするハリというか痛みがあり、身体中が今まで経験したことのない違和感の状態。狭くて暗い官舎で一人きり。友達もいない。外では、うるさいぐらいに大きな花火が響いてきて町中が盛り上がっている中、私だけが取り残されて人生の絶望を味わっている気分でした。そんな自分に罪悪感でしたが、今にしてみると、まだ血中母性濃度が20%いかないぐらいだったので、当然といえば当然だったと思います。
10 : 18 : 16 | 地方へ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
帰国
2014 / 04 / 17 ( Thu )
そうして、そこそこ楽しく充実した生活を満喫し、ようやくアメリカ生活にも慣れてきたかなと思った3年目、帰国が決まりました。ダンナさんは、3年半で博士号(Ph.D)を取得し、日本の最高学府で助手というポジションを得ました。


その途端。本当に、その途端、世の中が手の平を返しました。まずは、現地駐在組の日本人の奥様がたからお茶に誘われました。会う人会う人、それまでとはテンションがまるで違いました。私は、昨日までと何も変わってないのに。この人たちは、また何かあるとすぐに逆方向に手の平返すんだろうな~。


正直、私は、ダンナさんが留学後どうなるか、どうするかってまったく考えてなかったので、へーすごい、と他人事のようにびっくりしました。ようやく英語しゃべれるようになってきたところだったのに、もう帰国かあ。もう少しアメリカいたいなあ。あと少しで馴染めそうなんだけどなあ。私、これから何かできるかもしれないのに、という気持ちのほうが大きかった。それに、地元に帰る気まんまんだったので、えー東京かあ・・・と軽くへこみました。


ところが。気は持ちようです。切り替え切り替え。まだ24歳。英語もそこそこ話せます。日本ではインターネットの存在を知らない人が大多数。履歴書に「ホームページ作れます」と書けることは武器になるはず。なにしろ東京。なんでもできる。これから勝負できる。そう思ってみたら、ワクワクしてきました。


[東京でベンチャーに就職]

3年ぶりの日本は、少し違ってました。東京には茶色い髪の毛の人がたくさんいて。初めて住む大都会は、さすがガイジンが多いなあと思ったら。みなさん日本人でした。3年の間に、髪の毛を染めるのは不良の証ではなくファッションの1つになってて。アムロナミエという顔の小さなオンナの子が元気よく踊って歌ってました。久保田利伸のラブソングが主題歌のドラマでは、年上オンナX年下オトコの恋愛が肯定的に描かれていてハッピーエンド。ちょっとびっっくりでした。


就職先は、あっさり決定。アメリカのベンチャー企業です。社員は3人。社長は日系アメリカ人。ハードウェ系の会社でした。今までやってきたことが、すべて生かされる感じ。社長さんも、私の可能性を高くかってくれました。あちこちに私を連れて歩いてくれて、私にはポテンシャルがあると連呼してました。そのときは、そうだそうだと気持ちよくなってましたが、今にして思うと全然ほめ言葉じゃないですね。今は何もないってことですから。


会社は、虎の門。千葉から毎日片道2時間かけての通勤です。官舎は昔ながらの公団住宅。畳のみの六畳、四畳半、四畳半。緑色の塗り壁。昭和のにおいがいっぱいです。お風呂もコンクリートむき出しのところにバスタブがあって、10秒数えて沸かすやつ。でも家賃1万だから文句は言えません。毎朝6時40分ぐらいに家を出て、満員電車で押しつぶされること2時間。乗り換えも多くて。走っているかのような早歩きの波に遅れないよう必死でした。9時前に虎の門の会社に到着したときには、もう、くたくたです。帰りも同じ。ラッシュはないけど、2時間立ったり座ったりを繰り返してると、すごく時間を無駄にしてる気がしてしかたない。じゃ、単語でも覚えよう、本でも読もう、と思っても。結局、集中できずにぼーっとして終わってました。


業務内容はいろいろ。アメリカの会社の日本法人なので、送られてきたマーケティング資料を訳して日本用のパンフレットにしたり。展示会の準備をしたり。サポート契約する会社とやりとりしたり。OEMもしていたので、そこの打ち合わせについていったり。展示会では、ブースで説明したりマイク持ったり。大手メーカーなどは広く派手なブースで水着のお姉さんたちが踊ってました。その横で、地味にスーツ着て小さな仮設舞台で説明してると、なんだか申し訳なくて。そりゃ、私だってあんなにスタイル良ければ&脚長ければ見せびらかしますってば。


虎の門の会社は、どこかの大使館が使ってた高級アパートでした。キッチンは大きな冷蔵庫付きのアメリカ仕様。お風呂もあって、リビングがオフィス。ベッドルームが会議室。もう1つのベッドルームが社長室。まさにベンチャー。これから大きくなっていくのね。ワクワクするわ。


と。希望に胸が膨らんでいたのは最初の数か月だけ。あっという間に行き詰まり、まっさかさま。アメリカ本社も、潰れる潰れないが繰り返されCEOが解任され日本法人も契約がまったくとれず。1年半の間、お給料日にお給料が支払われたことは結局一度もありませんでした。


会社は、ぐらぐらだし。毎日4時間かけて往復してるのに、会社に着いてもすることないし。家に帰ってきても、古い社宅で気がめいるし。ダンナさんは、なんだか大変そうだし・・・。帰国した時点で、まだ24歳だったので、あと3年ぐらいはお互い好きなことしようね。と約束してました。子供もまだ要らないし。だから存分に仕事できるはずなのに。私もっといろいろ才能あるはずなのに。毎日、電車に乗ってるだけ・・・。なんのためにアメリカで頑張ってきたんだろう。


虎の門の会社の向いは、某テレビ局。坂を上りきると、もう1つテレビ局があって、ギョーカイ人っぽい人がいっぱいいます。大使館もたくさんあるので、ガイジンもうじゃうじゃ。どの人も人生が充実してるっぽいなあ。かっこいいなあ。忙しそうだなあ。どうやったら、そっち側の人になれるのかなあ。


と、ため息ばかりついていた頃。ダンナさんの転職の話がきました。いや正確には学校が変わるだけだから、なんていうんだろう。転校??東北の某旧帝大の講師です。引っ越さないといけません。


それを聞いた瞬間の反応は、「えー?また北上するの?」でした。私の中では北限は東京だったので。どんどん実家から遠くなるじゃん。あと、「私、まだ東京で何もしてない」も、ありました。ダンナさんは、1人で東京残るならそうしてもいいよ。と言ってたので、最初は、そうしようとしました。でも会社はなくなりそうだし。通勤うんざりだし。あんなに人口密度の高い東京で1人でアパート暮らししても、あんまり面白そうじゃなくて。結局、またもや、あっさり、辞めちゃいました。
10 : 16 : 11 | 東京へ | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
アメリカへ
2014 / 04 / 17 ( Thu )
“Coffee?” “Tea?”

大柄な客室乗務員のハクジンさんやコクジンさんが、コーヒーとお茶のサーバーを両手に持って、飛行機の狭い通路を歩いています。だみ声で大声。しかも、がに股。かつて、心をときめかせたスチュワーデスさん見習いのドラマで見た上品なお姉さんたちは、どこにもいません。形ばかりの結婚式を挙げた後、いざアメリカへ。私は大学4年の夏休み。向こうは新学期は9月からなので、それに向けての準備です。生まれて初めて乗る国際線。私がリアルに話した英語は、このときが初めてです「みーとぷりーず!」とべたべたの日本語英語で肉料理を注文しました。それまで熱心に英会話学校に通ってたのに。本番となると緊張するもんです。自分の席に近づいてくるだけで心臓が凍りそうになりました。


ダンナさんが進学したのは、アメリカ中西部のパブリックアイビーといわれる大学。公立だけど大変大変優秀な学校で、世界の大学ランキングなどでは日本のどの大学よりも上にランキングされます。けど日本での知名度はイマイチ。ダンナさんも私も、そういうのが好き。周りと同じことしてると負けた気がするんです。知ってる人だけが知っている、というのが好き。でも、寒いというのは想定外でした。


空港には、日本人の方がお迎えに来てくれました。英語モードで意気込んでたのに、いきなり日本語です。ダンナさんがお世話になった研究室のボスは日本人の先生。そこには、日本のさまざまな大学や大企業から研究者の方が家族連れで企業留学してて、お互いにお世話しあってました。自分たちが初めて渡米するときは前からいる人がお迎えに行って、住むところからクルマの手配、どこで何を買える、ということを全部伝授。してもらった分を次の人にしてあげる、という好循環。


電話線や上下水道の契約とか、英語が分からないし勝手が分からないので、本当に助かりました。ただ、英語で勝負モードでめちゃくちゃ意気込んでた私には、ちょっと残念だったかな。


夏のミシガン州は素敵でした。中西部でデトロイト近郊というから、どれだけ怖い街かと覚悟してたけど。大学の街なので、すごくインターナショナル。アジア系も多かったけど、インド系の人も多かったし。ムスリムの人たちも多かった。キャンパス内は、どこまでも芝生が続いてスプリンクラーが作る虹の素敵なこと。リスが、あちこちにいるし。ドアの作りもあけ方も英会話教室で習った通り。映画で見たとおり。部屋は、半地下でとても広くて、冷蔵庫もトムとジェリーで見たのと同じ。空気のにおいも違います。あー、これがアメリカだ~。見るものすべてが目新しいまま1か月過ごして8月の終わりに私だけ帰国。卒業だけしてから3月に再渡米しました。


アメリカで大学生になる


再渡米してからは、いよいよ本当の生活です。当時は、まだバブルの余韻が残っていた頃。周りの企業留学組の日本人のみなさんは、本当に輝かしい生活を送ってらっしゃいました。バブル絶頂期にOLさんをやっていた奥様たちなので、遊び方も超パワフル。今にして思うと、狭い日本人社会のなかで窮屈なこともたくさんあっただろうし、それまで日本でしっかり実績を積んでこられたことが評価されての留学なので、いろいろ大変だったと思います。


でも。21歳で貧乏学生夫婦の私には、ついていけませんでした。ランチいけないし。話も合わないし。子供もいないし。そこで、無理は禁物、と近くのコミュニティカレッジに通うことに。登録すればだれでも行けるカルチャーセンターのようなものです。私もダンナさんのようにTOEFLの点は出していたのだけど、それすらも必要ない学校でした。なのでやっぱり物足りなくて。で、結局、隣の街にある公立の総合大学に編入しました。


授業料も全然高くないローカルの大学です。アメリカの大学は、Fall Term(秋学期)、Winter Term(冬学期)、Spring/Summer Term(春/夏学期)と3つに分かれています。それぞれの学期にとりたい授業を登録して、試験に合格したら、その単位がもらえる仕組み。だいたい1クラス3単位で、1つの学期で4クラスとるとフルタイム学生となります。全部で、何単位そろえれば卒業です。2クラスぐらいならパートタイム学生。日本から留学する場合は、F1というフルタイム学生のステータスでないと学生ビザがおりません。なので、しっかり授業をたくさん取る必要があります。私は、F2という配偶者ビザだったので、パートタイムでもOK。働くことはできないけど、お金を使ってくれる分には、どうぞどうぞ、という身分です。


最初、スクールカウンセラーの人に、日本で大学を卒業してるんだったら、大学院に行くべきと言われました。でも家政科なんて絶対いやだから続けたくない、と言ったら、じゃなんで家政科に進んだの?とすごい不思議がられました。偏差値低かったから、と言いたかったのだけど英語力もなかったので、”because I had to”と言うのが精いっぱい。だから、なんで行かないといけなかったの?と聞かれたけど答えられなかった。入る学校&学科を間違えたと思ったんなら3年生のときに転校するとか転学すればよかったのに、とかも言われてた気がします。そもそも根本的に違うんですよね、大学の捉え方が。


そして初日です。ああ、もう思い出したくもない。恥ずかしすぎる。たしか、人類学入門の授業でした。いきなり知らないアメリカ人の女の子が「ハーイ!」と言って隣に座ってくれたのです。その子は、名前を名乗ってどこから来たの?とかいろいろ聞いてくれました。でも、ハクジン金髪の女の子に話しかけられたのなんか初めて。全身硬直です。彼女のすべてをまじまじ観察してるだけで気が遠くなりそう。目が青いし、金髪だし。肌が透けるように白いし。本物だあ、とか。英語の発音きれいだなあ、とか。まじまじ見てしまって、ちゃんと受け答えできない。何か言おうとしても、言葉が出てこない。というか心臓がバクバクする。彼女を困らせてしまいました。


何も言えずに、にっこり笑うだけで授業は始まりました。その後も、3か月間、広い講義室で、ずっと彼女は私の隣に辛抱づよく座ってくれました。でも会話はなく。お互い「ハーイ!」と言い合うだけ。彼女が今、シャワー浴びてきたんだよ、とか、この後、彼氏とデートするの、とか教えてくれたのだけど、そのたびに、相槌をうつだけ。顔を見ていられず、すぐに机を向いてしまいました。日本語だったら、どこまでもしゃべり倒せるのに。私、すごいおしゃべりな子なのに。なに、この空気は!本当つらかったです。申し訳なくて。みじめだった。。。


授業の内容も、もちろん分かりません。先生と生徒の会話も、おぼろげながらにしかわからない。どの人も発音きれいだな・・・と、うっとりするだけ。文系なので読まなければいけない本が多かったし。たまーに日本人らしき人を見かけるけど、流暢に英語をしゃべってるのをみると気おくれして素通り。アメリカ人の彼氏とか友達がたくさんいれば、そりゃ英会話の上達も早いよね、と羨んでみたり。


家に帰ると、ダンナさんが必死に勉強しています。最初の1年は、文部省の奨学金。ですから、1年の間に良い成績をとって、大学側から奨学金を獲得しなければなりません。ダメなら帰国。サッカーでいうなら、プレミアリーグのチームに練習生として参加することは許されたけど、そこで声がかからなかったら帰国するんだよ。という世界。厳しいです。


9月に入学して、すぐのことでした。ダンナさんのお父さんが倒れました。最初の試験の直前です。私は、就職活動の必要ない暇な大学4年生だったので、すぐさま彼の実家に飛んでいって、お義母さんと一緒に住み込みしました。ダンナさんは一度様子を見に来たけど、覚悟を決めて学校に戻り、結局、お義父さんは3か月後に帰らぬ人となってしまいました。試験が終わったあとに電話をして、お葬式も終わったことを告げました。お義父さんは、自分も留学したかったのだけど、戦後で自分が家族を養わないといけなくて諦めた。だから勉強がんばれ帰ってくるなと病院でダンナさんに遺言を告げていました。


なので、学業に対する姿勢が私とは根本的に違います。家に帰ってきても戦闘モード。ほとんど口もききません。ほかの日本人の奥様たちはずっと年上だし裕福だし。子育てしてるし。学校の日本人学生たちは同世代だけど独身だし普通に大学生生活してるし。私は、英語ぜんぜん喋れないから、アメリカ人の友達なんかできないし。テレビは英語ばっかりだし。インターネットは、まだなかったし。外は寒いし雪ばっかりだし。私は、こんなところで何やってるのかな・・・と鬱々です。


西日本育ちの私は、曇り空に慣れてません。冬でも、風は冷たくても青空です。雨は、ざーっと降って、すぐにやむものです。雪も、年に1回降るか降らないか。たまに1センチぐらい積もった雪をみて大喜び、という気候で育っているので、半年間、曇り空だけが続くミシガンの冬は、メンタル的に本当にやられました。雪が降って溶けない、しかもそれが半年続く、という現実はとてもとてもつらかった。よく学者さんやジャーナリストさんが北欧の教育制度や社会制度を見習おうって言う記事を見かけますけど、あれは根本的に「極寒」に耐えるDNAを持った文化でしか成立し得ない制度です。絶対。


鬱々しまくりで早速人生後悔しかけの私でしたが。ダンナさんの大学には世界中から博士号を取得しに優秀な人が集まってきています。勉強熱心なのはアジア共通。台湾や韓国からも奥さん連れで博士号を取りに来てる人がたくさんいて、やっぱりダンナさんと同じで工学部が多くて。みんな家族寮に住んでました。安いし安全だから。そして、みんな私と同じように隣の安い大学へ通ってました。彼女たちの英語は分かりやすい。私も、彼女たちに対してならゆっくり英語を話せるし言いたいことをフォローして補ってくれる。こういう風に言うんだよ、と教えてもくれる。悩みも共通。ダンナさんの邪魔をできないのも、冬が辛いのも一緒。分かり合える仲間ができました。中国の人も、たくさんいたはずなのだけど、仲良くなるのはなぜか台湾や韓国の子ばかりでした。


なかでも台湾のチャオとはすごく仲良くなりました。

“アイ ヘイト スノー。ザ・スカイ”

と言って空を指さし、うんざりした表情をするチャオ。

“アイ ノー!ミー ツー!”

といって、キャーっとお互いの両手をつかんで大笑い。

曇り空見るだけで泣けてくるといって、どれだけ意気投合したことか。ビビアン・スーみたいなかわいい子で、とてもオープンで楽しい子でした。


そんな、ある日、おばあちゃんが遊びに来てるからおうちに来て、とお呼ばれしました。すると、とてもかわいくて小さくてニコニコしたおばあちゃんが、ソファにちょこんと座ってます。私を見ると、すごーく嬉しそうに

「私は、サロンパスで働いていました」

と完璧な発音のきれいな日本語でご挨拶されます。

え?なんで日本語話せるの?日本人なの?すごく教養の高い世代なの?とびっくりしてたら。日本の統治時代に生まれ育ったからだよ、とチャオ。

え?日本って台湾を占領してたの・・・??しまった知らなかった・・・

焦る私。でも2人とも、超笑顔。ごめんなさい、アイムソーリーという私に、おばあちゃんは笑顔。日本語話せることが嬉しくて仕方ない感じ。台湾は親日国家ということすら知りませんでした。ごめんチャオ。ちゃんと歴史は勉強しなければいけません。特に近代史。とても恥ずかしかったです。


ダンナさんは、2年目からも無事、奨学金を獲得。リサーチアシスタントという職を得て、半分学生半分職員みたいな立場になりました。なので学費は払わなくてOK。月々ほんの少しだけお給料も出ました。週末に日本人学校で数学を教えるバイトも含めれば、カツカツだけどなんとかやっていけるようになりました。

翻訳会社でアルバイト


それと同時に、私は、パートタイム学生だったのを途中でフルタイム学生に変更。フルタイムになると授業数が増えるから支払う授業料も増えるけど、インターンをやれるからバイトができるんです。オンザジョブトレーニング(OJT)というか、企業実習というか。授業料を払ってバイトをするというよくわからない感じだけど。近くの日本企業がたくさん集まっている街にある翻訳会社の電話番です。


このときも、ジャズサークルに行ったときと同じ。刺激のない毎日に耐えられなくて、なんか面白いことないかな~と、いろいろ考えたあげくに、とりあえず思いつきで飛び込んでいくんです。扉は閉じられてるかもしれない。でも少しだけ開いてるかもしれない。だったら、まずは確かめに行って、わずかでも隙間があれば後はムリヤリにでもコウ開けちゃえ!OJTというシステムも自分で見つけて、ミシガンに住んでいる日本人向けのフリーペーパーに広告を載せていた翻訳会社に電話してお願いしました。結果はOK。ま。米国だしね。とても普通のことです。


当時はインターネットが出始めのころ。近所の日本企業から電話がかかってきて、ファックスで送られてきた原稿を確認して見積もりを口頭で言った後、作業開始。社長さんが手書きで訳すと、それを私がタイプしてファックスで送り返したり、着払いの宅配便で送ったり。


電話番生活のおかげで、私の英語力は飛躍的に向上しました。仕事だと、わかったふりして英語を聞き流すとかできません。それにかかってくる内容は、だいたい同じなので、向こうにしゃべらせるまえに私が質問攻めにするという戦法を編み出したら、うまくいくようになりました。英訳ですか?和訳ですか?いつまでですか?来週の火曜ですか?何時ですか?ファックスで返しますか?キャッシュオンデリバリー(着払い)ですか?1ワードあたり、XXセントでよいですか?、そういう感じです。


あと。日本語学習中のアメリカ人の男の子と仲良くなったのもすごく大きかった。彼の名前はジョンといって、夏休みの間、大阪のメーカーで修業して帰ってきたところ。とても有名なアイビーリーグの大学の学生さんなんだけど、お金が底をついたから今は休学中。彼の英語は、ゆっくりで聞き取りやすく、しかも体格が日本人ぽいので威圧感なく付き合えました。あんまりイケメンじゃなかったし(ごめん、ジョン!)。空いた時間には一緒にホームページを作って遊んだり。たわいもないことを英語でしゃべるという素晴らしい経験をできるようになりました。


Windows 95ブームが到来してたものの、私の周りはMacintoshばかり。Performaというモデルが出たときだったので、とうとうアップルも軟化したか、初心者系を取り込む戦略だよね、と軽くバカにしてみたり。とは言っても、それまでディスプレイと本体が一体型のおもちゃみたいなマックだったので、新しいモデルが出るたびに、今度は何をしかけてくるんだろう、とワクワクしてました。専門誌をめくっては、このスティーブって人いつも出てるね。でも肩書が不思議だよね。アップルにスティーブって2人いるんじゃなかったっけ?とか。今ではスティーブジョブズのほうがずっと有名ですが、当時はスティーブ・ウォズニアックのほうが上だった印象があります。


また。その頃は、インターネットの黎明期でもありました。お隣の州の大学でネットスケープという名前のブラウザとかいうものが発明されてました。それまでは自分でテキストベースのみで1行ずつしか検索結果を表示できなかったのに。ページとして表示されるし、しかも自分でページを作ることができるんです。背景は灰色のみ。そこに文字だけが表示されていて、青色になっている部分の文字列をクリックすると、別のページにとぶみたい。すごーい。しかも、これ、自分の作ったページも検索対象に入るみたいだよ。電話帳みたいに、どこかに登録しておくと見つけてもらえるのかな?いや、ヘッダーのタグにキーワードを入れておくといいみたいだよ。と、ジョンと夢中になって延々と翻訳会社のホームページ作りに没頭してました。

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結婚式より英検
2014 / 04 / 17 ( Thu )
「あと3週間だね」

台所で母が、しんみり言いました。母として、娘に伝えたいこと、結婚するということ、私が赤ちゃんだったときのこと。そういうことを話したかったみたい。ところが私の返事は

「は?あと2週間でしょ!」

軽く眼の端を吊り上がらせて、過去問のやり直しや単語の確認に余念のない私。結婚式の前の週に迫った英検受験のことで頭いっぱいでした。大学2年の夏から勉強リハビリをして、少しずつ勉強できる身体&頭に戻ってきて。英検の、しかも準1級を受験できるような人に自分がなれるとは思ってなかったのに、そこまで来てる。2年かけて、ここまで来た私。すごいことです。大学受験より、ずーっとずっと真剣に準備してきました。私の中では国家試験(受けたことないけど)でも受けに行くぐらいの覚悟です。


しかも、まだやや反抗期な私は母と話すのが苦手。結婚っていうけど、もう2年前から一緒に暮らしてるじゃん。結婚は、渡米のビザを取得するための手段でしかなくて。結婚式は、親がしろというから、してあげるだけ。披露宴も、ほんと面倒だからしたくなかった。チャラチャラしたバブルっぽいことに対して当時すごく嫌悪感があったのもあったかも。でも・・・母には、ほんと申し訳なかったです。


今にして思えば、母の気持ちも痛いほどわかるし、その通りだなと思います。あんな良い会社にせっかく就職できたのに、なんでわざわざ留学なんかしないといけないの。辞めなくてもよかったのに。とりあえず子供だけは作るんじゃないよ。いつでも離婚できるようにね。留学したと思えばいいから。まだ21歳なんだから、失敗して帰ってきても、23-24歳ぐらいだろうし。子供さえいなければ、いくらでもやり直しできるから。とか。普通、遠距離恋愛してちゃんと就職できてから結婚だよね、とか。


周りの女子たちも、同じことを言ってました。というか、ダンナさんの大学関係の人以外は世の中全員、同じように常識的でした。下火にはなってたけど、まだバブル。楽してチャラチャラしててもお金を稼げた時代。就職の内定なんて、選ばなければちゃんと見つかった時代。女子として就職して、社内恋愛して、結婚退職して、新陳代謝が繰り返されてた頃です。それなのに、なんでわざわざ学生結婚なんかして苦労しないといけないのか、もう散々な言われよう。本当に常識のない行為でした。


かといって、悲劇のヒロインぶってる感じでもなかったです。周りが全部反対するから意固地になるとか、ではなく。熱く燃えてたからでもないし。。。。たぶん何も考えてなかった。それが一番近いかな。学生結婚→かっこいい。アメリカに暮らせる→面白そう。それだけ。あんなに騒いでアナウンサーになりたかった私は、あっという間にどこかへ行ってしまいました。


そして、結論からいうと、今、ダンナさんは、某旧帝大の教授になってます。最初、某最高学府の講師として帰国したのだけど、その途端、世の中の態度の変わりようったら。ほんと、すごかった。「私は、最初からこうなると思ってたわ」と言い張った人たちがなんと多かったことか。あんなにさげすんでボロクソに言ってた人たちが。


おかげで、今では、教授夫人ですね、かとか言っていただいてもいたって冷静です。というか他人の評価は、まったく気にならない人になりました。自分で自分に納得しているかどうかだけがとても大事。肩の力が抜けるって、ほんとラク~。あと、ときどき、「うまくやったわね。いいの捕まえたわね」的な言い方をされることがありますが。私は、大学の先生と結婚したのではなくて、結婚した人が大学の先生になったんです。だから、ダンナさんの奥さんでいるのは、私のキャリアの一部。必要に応じて遠慮なく言い触らさせていただいています。
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勉強リハビリ生活
2014 / 04 / 17 ( Thu )
親はパニックになっていたものの、今すぐ結婚&渡米というのでもなさそうなので、しばらくは静観されることになりました。留学するには、TOEFLという英語の試験で550点以上をとらないといけないことが判明したからです。これがなかなか厄介で。しかも、こっちの大学で大学院に入ってから交換留学の形をとったほうがよい、ということになり、だったら大学院の試験を受けて合格しないと。という展開。親にしてみたら、ほんと何もかも怪しい人です。ただ、そうなると身分が空白の1年ができてしまうので、それはよろしくないと先生が配慮してくださって、某大企業に突然就職が決まりました。


ダンナさんは、毎日9時に出勤して5時に退社する生活。往復の電車の中で単語帳を広げ、昼休みも頑張ってTOEFL対策。私は、学校にもあまりいかなくなってしまって、ほとんど専業主婦。朝6時に彼のアパートに行って一緒に朝ごはんを食べ、行ってらっしゃいをして、六畳一間+四畳半キッチンをお掃除&洗濯して、そこからときどき学校に行ったりバイトに行ったり。夕方は、お夕飯を作って待っていて、夜は一緒にお勉強。そして10時ごろに家に帰るというパターンでした。自宅から学校へ電車経由で行くと、片道1時間半かかるのだけど、クルマなら20分。ダンナさんのクルマを勝手に乗り回してた方がずっとラク。彼のアパートから学校までは歩いて10分ぐらいだったし。半同棲というか、ほとんど同棲生活でした。お給料も、とても良い時代だったので生活に困らなかったし。ボーナスもびっくりの金額でした。


そして私。今の自分を逃げ出すチャンスがやってまいりました。これは生かさないといけません。人生リセットです。あとは英語を勉強するだけ。さてがんばりましょう。


・・・ところが。脳みそも筋肉。毎日使ってないと衰えます。バレエマンガかなんかで、1日練習をサボると自分が分かる、2日サボると相手にバレる、3日サボると観客に伝わるっていうのがありましたけど。私の場合は、中学で燃え尽きてたので、もう4-5年まともに頭を使ってない状態でした。


高校生用の総合文法なんとかっていう分厚い参考書をひっぱり出してきて目の前に広げてみるものの。SVOとかをみた瞬間にシャッターが下りてくる感じ。例文をSVOとかの解説を読み比べようとすると、突然、今日のお昼何食べようとか頭に浮かんだり。そこではっと我に返って、いかんいかん、とまた最初のページから読み始めるのだけど、同じところまでいくと、今度は部屋を掃除したくなったり。


2人で一緒にいるときも、いつもお勉強。彼が自分の机で、私はコタツで。勉強リハビリ中の私は、1行読むたびに、ダンナさんの背中を見て「いいな~。集中力があって」と羨ましがってみたり、セーターにゴミを見つけてみたり。何度も何度もあくびしたり。それでも、そのうちに1日3時間は、じっと座っていられるようになりました。一緒にいても、彼はずっと勉強してるので、ほかに何もできなかったからかも。そして英文法の本を一通り終わって、2巡目が終わり要点だけを書きだしたぐらいから、徐々に集中力も高まってきました。単語も覚えられるようになってきました。とりあえず、勉強リハビリのみなさんは、机にじっと座る練習から始めると良いと思います。

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鬱々とした女子大生時代
2014 / 04 / 17 ( Thu )
かといって浪人する勇気もなく。特に行きたい学校も行けそうな学校もなかったので、唯一合格した地元の女子大にそのまま進学。家政学部家政学科。幼稚園から大学まで一貫の女子校です。なぜ家政科を選んだのかというと単に偏差値が一番低かったから。だって滑り止めだったんですから。


地元では御三家と言われているとても良い学校です。入学後、地下鉄を降りると、学校まで続く坂道に、いろいろな大学のお兄さんたちがサークル勧誘しまくってました。


「XX大学ボートサークルでぇーっす。よっろしく~!」


浅黒く焼けた肌に白いTシャツ。胸には金のチェーンネックレス。これ見よがしにベンツ横付けしてる人たちもいました。脇には、ヴィトンのセカンドバック。時は平成元年。バブル真っ盛り。要領よくお金を稼ぐ人が偉かった時代。コツコツ努力する人は、もっともバカにされてました。


学校に到着すると、もらったサークルの勧誘チラシを物色するクラスメートたち。特に家政科だったので、おしゃれさんが多く、バブルのど真ん中路線を突っ走ってるように見えました。洋服はスーツ。肩パット入り。3万円以上。しゃべり方は基本、高飛車(高ピー)です。合コンには「行ってあげて」ました。翌日には、名前でなく、クルマの名前で品評会。


「昨日のビーエム(BMW)、あの後、どうだった~?」

「うーん。まあまあかなあ。でもこの間のソアラのほうがよかったかも~」

「えー、うっそ、まじぃ?だけど、あっちは医者の息子じゃん」


という世界です。最初は、がんばって馴染もうとしました。でも、どうしても嫌で。というより無理で。私は、女性性を強調する系の女子たちとは違う路線を歩んできたつもりだったのに。でも、今いるのは、そういう場所。これまでの自分が全否定された気分。私はキャリア志向系の子なのに。なんで、こんなバカと一緒にいなくちゃならないの?と、まったく意味不明なことを口走るようになり、そのうち学校が大嫌いになってしまいました。


というか。高校のときにも、そういう子はいました。カーストでいったら最上級の女子たち。私は、いつもやや優等生なグループにいて、そういう華やかな人たちとはほとんど交流がなかった。大学では、所属先を間違えただけ。バブル時代の軽薄な空気も大きかった。学校に文句をつけるのも彼女たちを卑下するのも全部お門違い。


そんなバカな私は、無理して気の合わない人たちと遊ぶのはやめてしまいました。1人でいい。彼氏とか、そういうのも、もういらない。こうなったら、今の環境を最大限に生かすんだ。地元の良い女子大っていうのが存分に効いて、普通じゃない仕事を目指そう。そうだ、アナウンサーだ。


夕方、アナウンス学校に通うようになりました。バイトで学校代を稼いで夢に向かってまっしぐら・・・と本人(私)は、すっかりその気。でも。家で練習したことなんか一度もなかった。アナウンス学校に通ってる自分に、うっとりしてただけ。そのくせ、私の夢なのとか、私がずっとしたかったことだったの、とか、語る時だけは、やたら熱かったです。


そして2年生になると、アナウンスを目指すだけじゃ物足りない。もっといろいろしたい。と思い始めました(→そう思う時点でもうダメ)。それに、お金持ちより頭の良い人たちとお付き合いしたい。自分の内面を磨きたい。そうだ。私、ずっとピアノを一生懸命やってきてたじゃん。一時期は、音大か教育大の音楽科に行こうと思ってたぐらい。こっちにしよう。お隣の旧帝大の真面目なクラブ活動に入れてもらおう。ピアノやろう。クラッシックは、もう知ってるから全然違うジャンル。ジャズだ。そこで健全なお付き合いをするんだ。


そう意気込んで。浮かないように、いつものショッキングピンクの肩パット入りスーツは止めにして、木綿のロングスカートはいてみたりなんかして。薄暗くてたばこ臭いザ・国立といった感じの校舎をうろうろしてました。ナンパ系サークルは、私の学校までチラシ配りに来てくれるし場所も分かりやすかったけど、ジャズは明らかに部活動。学内の人だけが分かるような暗号&記号で書いてあってよそ者には分かりづらい・・・。やっぱ、他大学はダメなのかな。


取りあえず、目の前でギターを弾いているお兄さんに聞いてみて、ダメなら諦めよう。そう思って声をかけたのがダンナさんでした。後から聞いたら、彼は、その瞬間に感じたそうです。速攻でお電話かかってきて、お付き合いが始まりました。
10 : 10 : 04 | 鬱々とした女子大生時代 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
痛い子供時代
2014 / 04 / 17 ( Thu )
私は、子供のころ、それはもう痛々しい優等生でした。母がずっと働いていたので、私が、1歳4か月しか違わない妹の母代わり。小学校低学年のときは、自宅の裏側にある保育園に妹をお迎えに行き、洗濯ものを取り入れて、雨戸を閉めて、お風呂を掃除。高学年になると、お風呂も沸かしてました。今のようなボタン1つ押すだけじゃなくて、押して10秒待って、手を放すとボっと火が点くという結構危険で習熟度を要求される昭和のお風呂です。ご飯も作ってた気もします。


大好きな母に褒められるので頑張っちゃってたんでしょう。同じように、お勉強もとてもよくできる子でした。なにしろ真面目に予習復習してたから。習い事も一生懸命でピアノも、とてもとてもお上手でした。


中学では、全身全霊で勉強しまくり。社会の教科書なんか本文を全部すらすら言えるぐらいに丸暗記。月曜から日曜まで、全教科についてそれぞれ勉強のノルマを決めるんです。それぞれの教科について単語帳を作ったら、毎日必ずそれを繰り返すこと。朝5時半に起きて、ご飯までの1時間に、英単語と地理をやると決めたら必ずやる。時間が余ったら歴史も。1日のTO DOリストが決まっていて、それを全部こなしたらその日は自分の勝ち!いったい誰に対して勝負してるんだか・・・。


負けたり予定が狂って後ろ倒しになったりしたら軽く大パニック。学校にこっそり(?)単語帳を持って行って、休み時間にトイレに隠れたりなんかして。友達にバレないように、人気のないトイレを選んだりなんかして。誰にも見つからずに遅れを取り戻せたときは大勝利。大満足です。


そんなんなので。思春期に入ってからの反抗期は、すさまじかった。小出しに反抗しておけばよかったものの、全部まとめて一発で来たものだから大変だったのなんのって。


田舎の中学から、ほんの少しだけ都会の高校に進んだら。優等生の私を知っている人が1人もいなくなりました。普通の子のふりをしてたら、普通の子として扱ってもらえました。それが嬉しくて。なんだ私も普通なんじゃん。大丈夫じゃん。もう一気に身も心も軽くなりました。身体じゅうを縛っていた重い鎖が全部パキンと割れて粉々になったような気分。


優等生だった自分を全否定してしまった私は、勉強することをやめてしまいました。実際、勉強、というかテストでよい点をとるための詰め込み作業は中学のときに没頭しすぎて飽きてたし。反抗期も絶頂期。3年間、学校では女友達と楽しくバカ騒ぎをして、家では自己矛盾を許さない系のミュージシャンを延々と聴いてるだけ。親とは口きかないし勉強しないし。その結果、受けた大学にことごとく落ちて滑り止めのつもりだった大学にしか合格しませんでした。


今にして思うと、あんなに勉強しなかったのに、あんなに良い学校に縁をいただけたのは本当に感謝すべきことだったのに。それでも。地元のご近所の人たちには、都会の高校に進んだのだから、最低でも旧帝大、もしかしたら東大に行くかも、ぐらいに思われてたので。恥ずかしいやら悔しいやら情けないやら。
10 : 09 : 07 | 痛い子供時代 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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