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アメリカへ
2014 / 04 / 17 ( Thu )
“Coffee?” “Tea?”

大柄な客室乗務員のハクジンさんやコクジンさんが、コーヒーとお茶のサーバーを両手に持って、飛行機の狭い通路を歩いています。だみ声で大声。しかも、がに股。かつて、心をときめかせたスチュワーデスさん見習いのドラマで見た上品なお姉さんたちは、どこにもいません。形ばかりの結婚式を挙げた後、いざアメリカへ。私は大学4年の夏休み。向こうは新学期は9月からなので、それに向けての準備です。生まれて初めて乗る国際線。私がリアルに話した英語は、このときが初めてです「みーとぷりーず!」とべたべたの日本語英語で肉料理を注文しました。それまで熱心に英会話学校に通ってたのに。本番となると緊張するもんです。自分の席に近づいてくるだけで心臓が凍りそうになりました。


ダンナさんが進学したのは、アメリカ中西部のパブリックアイビーといわれる大学。公立だけど大変大変優秀な学校で、世界の大学ランキングなどでは日本のどの大学よりも上にランキングされます。けど日本での知名度はイマイチ。ダンナさんも私も、そういうのが好き。周りと同じことしてると負けた気がするんです。知ってる人だけが知っている、というのが好き。でも、寒いというのは想定外でした。


空港には、日本人の方がお迎えに来てくれました。英語モードで意気込んでたのに、いきなり日本語です。ダンナさんがお世話になった研究室のボスは日本人の先生。そこには、日本のさまざまな大学や大企業から研究者の方が家族連れで企業留学してて、お互いにお世話しあってました。自分たちが初めて渡米するときは前からいる人がお迎えに行って、住むところからクルマの手配、どこで何を買える、ということを全部伝授。してもらった分を次の人にしてあげる、という好循環。


電話線や上下水道の契約とか、英語が分からないし勝手が分からないので、本当に助かりました。ただ、英語で勝負モードでめちゃくちゃ意気込んでた私には、ちょっと残念だったかな。


夏のミシガン州は素敵でした。中西部でデトロイト近郊というから、どれだけ怖い街かと覚悟してたけど。大学の街なので、すごくインターナショナル。アジア系も多かったけど、インド系の人も多かったし。ムスリムの人たちも多かった。キャンパス内は、どこまでも芝生が続いてスプリンクラーが作る虹の素敵なこと。リスが、あちこちにいるし。ドアの作りもあけ方も英会話教室で習った通り。映画で見たとおり。部屋は、半地下でとても広くて、冷蔵庫もトムとジェリーで見たのと同じ。空気のにおいも違います。あー、これがアメリカだ~。見るものすべてが目新しいまま1か月過ごして8月の終わりに私だけ帰国。卒業だけしてから3月に再渡米しました。


アメリカで大学生になる


再渡米してからは、いよいよ本当の生活です。当時は、まだバブルの余韻が残っていた頃。周りの企業留学組の日本人のみなさんは、本当に輝かしい生活を送ってらっしゃいました。バブル絶頂期にOLさんをやっていた奥様たちなので、遊び方も超パワフル。今にして思うと、狭い日本人社会のなかで窮屈なこともたくさんあっただろうし、それまで日本でしっかり実績を積んでこられたことが評価されての留学なので、いろいろ大変だったと思います。


でも。21歳で貧乏学生夫婦の私には、ついていけませんでした。ランチいけないし。話も合わないし。子供もいないし。そこで、無理は禁物、と近くのコミュニティカレッジに通うことに。登録すればだれでも行けるカルチャーセンターのようなものです。私もダンナさんのようにTOEFLの点は出していたのだけど、それすらも必要ない学校でした。なのでやっぱり物足りなくて。で、結局、隣の街にある公立の総合大学に編入しました。


授業料も全然高くないローカルの大学です。アメリカの大学は、Fall Term(秋学期)、Winter Term(冬学期)、Spring/Summer Term(春/夏学期)と3つに分かれています。それぞれの学期にとりたい授業を登録して、試験に合格したら、その単位がもらえる仕組み。だいたい1クラス3単位で、1つの学期で4クラスとるとフルタイム学生となります。全部で、何単位そろえれば卒業です。2クラスぐらいならパートタイム学生。日本から留学する場合は、F1というフルタイム学生のステータスでないと学生ビザがおりません。なので、しっかり授業をたくさん取る必要があります。私は、F2という配偶者ビザだったので、パートタイムでもOK。働くことはできないけど、お金を使ってくれる分には、どうぞどうぞ、という身分です。


最初、スクールカウンセラーの人に、日本で大学を卒業してるんだったら、大学院に行くべきと言われました。でも家政科なんて絶対いやだから続けたくない、と言ったら、じゃなんで家政科に進んだの?とすごい不思議がられました。偏差値低かったから、と言いたかったのだけど英語力もなかったので、”because I had to”と言うのが精いっぱい。だから、なんで行かないといけなかったの?と聞かれたけど答えられなかった。入る学校&学科を間違えたと思ったんなら3年生のときに転校するとか転学すればよかったのに、とかも言われてた気がします。そもそも根本的に違うんですよね、大学の捉え方が。


そして初日です。ああ、もう思い出したくもない。恥ずかしすぎる。たしか、人類学入門の授業でした。いきなり知らないアメリカ人の女の子が「ハーイ!」と言って隣に座ってくれたのです。その子は、名前を名乗ってどこから来たの?とかいろいろ聞いてくれました。でも、ハクジン金髪の女の子に話しかけられたのなんか初めて。全身硬直です。彼女のすべてをまじまじ観察してるだけで気が遠くなりそう。目が青いし、金髪だし。肌が透けるように白いし。本物だあ、とか。英語の発音きれいだなあ、とか。まじまじ見てしまって、ちゃんと受け答えできない。何か言おうとしても、言葉が出てこない。というか心臓がバクバクする。彼女を困らせてしまいました。


何も言えずに、にっこり笑うだけで授業は始まりました。その後も、3か月間、広い講義室で、ずっと彼女は私の隣に辛抱づよく座ってくれました。でも会話はなく。お互い「ハーイ!」と言い合うだけ。彼女が今、シャワー浴びてきたんだよ、とか、この後、彼氏とデートするの、とか教えてくれたのだけど、そのたびに、相槌をうつだけ。顔を見ていられず、すぐに机を向いてしまいました。日本語だったら、どこまでもしゃべり倒せるのに。私、すごいおしゃべりな子なのに。なに、この空気は!本当つらかったです。申し訳なくて。みじめだった。。。


授業の内容も、もちろん分かりません。先生と生徒の会話も、おぼろげながらにしかわからない。どの人も発音きれいだな・・・と、うっとりするだけ。文系なので読まなければいけない本が多かったし。たまーに日本人らしき人を見かけるけど、流暢に英語をしゃべってるのをみると気おくれして素通り。アメリカ人の彼氏とか友達がたくさんいれば、そりゃ英会話の上達も早いよね、と羨んでみたり。


家に帰ると、ダンナさんが必死に勉強しています。最初の1年は、文部省の奨学金。ですから、1年の間に良い成績をとって、大学側から奨学金を獲得しなければなりません。ダメなら帰国。サッカーでいうなら、プレミアリーグのチームに練習生として参加することは許されたけど、そこで声がかからなかったら帰国するんだよ。という世界。厳しいです。


9月に入学して、すぐのことでした。ダンナさんのお父さんが倒れました。最初の試験の直前です。私は、就職活動の必要ない暇な大学4年生だったので、すぐさま彼の実家に飛んでいって、お義母さんと一緒に住み込みしました。ダンナさんは一度様子を見に来たけど、覚悟を決めて学校に戻り、結局、お義父さんは3か月後に帰らぬ人となってしまいました。試験が終わったあとに電話をして、お葬式も終わったことを告げました。お義父さんは、自分も留学したかったのだけど、戦後で自分が家族を養わないといけなくて諦めた。だから勉強がんばれ帰ってくるなと病院でダンナさんに遺言を告げていました。


なので、学業に対する姿勢が私とは根本的に違います。家に帰ってきても戦闘モード。ほとんど口もききません。ほかの日本人の奥様たちはずっと年上だし裕福だし。子育てしてるし。学校の日本人学生たちは同世代だけど独身だし普通に大学生生活してるし。私は、英語ぜんぜん喋れないから、アメリカ人の友達なんかできないし。テレビは英語ばっかりだし。インターネットは、まだなかったし。外は寒いし雪ばっかりだし。私は、こんなところで何やってるのかな・・・と鬱々です。


西日本育ちの私は、曇り空に慣れてません。冬でも、風は冷たくても青空です。雨は、ざーっと降って、すぐにやむものです。雪も、年に1回降るか降らないか。たまに1センチぐらい積もった雪をみて大喜び、という気候で育っているので、半年間、曇り空だけが続くミシガンの冬は、メンタル的に本当にやられました。雪が降って溶けない、しかもそれが半年続く、という現実はとてもとてもつらかった。よく学者さんやジャーナリストさんが北欧の教育制度や社会制度を見習おうって言う記事を見かけますけど、あれは根本的に「極寒」に耐えるDNAを持った文化でしか成立し得ない制度です。絶対。


鬱々しまくりで早速人生後悔しかけの私でしたが。ダンナさんの大学には世界中から博士号を取得しに優秀な人が集まってきています。勉強熱心なのはアジア共通。台湾や韓国からも奥さん連れで博士号を取りに来てる人がたくさんいて、やっぱりダンナさんと同じで工学部が多くて。みんな家族寮に住んでました。安いし安全だから。そして、みんな私と同じように隣の安い大学へ通ってました。彼女たちの英語は分かりやすい。私も、彼女たちに対してならゆっくり英語を話せるし言いたいことをフォローして補ってくれる。こういう風に言うんだよ、と教えてもくれる。悩みも共通。ダンナさんの邪魔をできないのも、冬が辛いのも一緒。分かり合える仲間ができました。中国の人も、たくさんいたはずなのだけど、仲良くなるのはなぜか台湾や韓国の子ばかりでした。


なかでも台湾のチャオとはすごく仲良くなりました。

“アイ ヘイト スノー。ザ・スカイ”

と言って空を指さし、うんざりした表情をするチャオ。

“アイ ノー!ミー ツー!”

といって、キャーっとお互いの両手をつかんで大笑い。

曇り空見るだけで泣けてくるといって、どれだけ意気投合したことか。ビビアン・スーみたいなかわいい子で、とてもオープンで楽しい子でした。


そんな、ある日、おばあちゃんが遊びに来てるからおうちに来て、とお呼ばれしました。すると、とてもかわいくて小さくてニコニコしたおばあちゃんが、ソファにちょこんと座ってます。私を見ると、すごーく嬉しそうに

「私は、サロンパスで働いていました」

と完璧な発音のきれいな日本語でご挨拶されます。

え?なんで日本語話せるの?日本人なの?すごく教養の高い世代なの?とびっくりしてたら。日本の統治時代に生まれ育ったからだよ、とチャオ。

え?日本って台湾を占領してたの・・・??しまった知らなかった・・・

焦る私。でも2人とも、超笑顔。ごめんなさい、アイムソーリーという私に、おばあちゃんは笑顔。日本語話せることが嬉しくて仕方ない感じ。台湾は親日国家ということすら知りませんでした。ごめんチャオ。ちゃんと歴史は勉強しなければいけません。特に近代史。とても恥ずかしかったです。


ダンナさんは、2年目からも無事、奨学金を獲得。リサーチアシスタントという職を得て、半分学生半分職員みたいな立場になりました。なので学費は払わなくてOK。月々ほんの少しだけお給料も出ました。週末に日本人学校で数学を教えるバイトも含めれば、カツカツだけどなんとかやっていけるようになりました。

翻訳会社でアルバイト


それと同時に、私は、パートタイム学生だったのを途中でフルタイム学生に変更。フルタイムになると授業数が増えるから支払う授業料も増えるけど、インターンをやれるからバイトができるんです。オンザジョブトレーニング(OJT)というか、企業実習というか。授業料を払ってバイトをするというよくわからない感じだけど。近くの日本企業がたくさん集まっている街にある翻訳会社の電話番です。


このときも、ジャズサークルに行ったときと同じ。刺激のない毎日に耐えられなくて、なんか面白いことないかな~と、いろいろ考えたあげくに、とりあえず思いつきで飛び込んでいくんです。扉は閉じられてるかもしれない。でも少しだけ開いてるかもしれない。だったら、まずは確かめに行って、わずかでも隙間があれば後はムリヤリにでもコウ開けちゃえ!OJTというシステムも自分で見つけて、ミシガンに住んでいる日本人向けのフリーペーパーに広告を載せていた翻訳会社に電話してお願いしました。結果はOK。ま。米国だしね。とても普通のことです。


当時はインターネットが出始めのころ。近所の日本企業から電話がかかってきて、ファックスで送られてきた原稿を確認して見積もりを口頭で言った後、作業開始。社長さんが手書きで訳すと、それを私がタイプしてファックスで送り返したり、着払いの宅配便で送ったり。


電話番生活のおかげで、私の英語力は飛躍的に向上しました。仕事だと、わかったふりして英語を聞き流すとかできません。それにかかってくる内容は、だいたい同じなので、向こうにしゃべらせるまえに私が質問攻めにするという戦法を編み出したら、うまくいくようになりました。英訳ですか?和訳ですか?いつまでですか?来週の火曜ですか?何時ですか?ファックスで返しますか?キャッシュオンデリバリー(着払い)ですか?1ワードあたり、XXセントでよいですか?、そういう感じです。


あと。日本語学習中のアメリカ人の男の子と仲良くなったのもすごく大きかった。彼の名前はジョンといって、夏休みの間、大阪のメーカーで修業して帰ってきたところ。とても有名なアイビーリーグの大学の学生さんなんだけど、お金が底をついたから今は休学中。彼の英語は、ゆっくりで聞き取りやすく、しかも体格が日本人ぽいので威圧感なく付き合えました。あんまりイケメンじゃなかったし(ごめん、ジョン!)。空いた時間には一緒にホームページを作って遊んだり。たわいもないことを英語でしゃべるという素晴らしい経験をできるようになりました。


Windows 95ブームが到来してたものの、私の周りはMacintoshばかり。Performaというモデルが出たときだったので、とうとうアップルも軟化したか、初心者系を取り込む戦略だよね、と軽くバカにしてみたり。とは言っても、それまでディスプレイと本体が一体型のおもちゃみたいなマックだったので、新しいモデルが出るたびに、今度は何をしかけてくるんだろう、とワクワクしてました。専門誌をめくっては、このスティーブって人いつも出てるね。でも肩書が不思議だよね。アップルにスティーブって2人いるんじゃなかったっけ?とか。今ではスティーブジョブズのほうがずっと有名ですが、当時はスティーブ・ウォズニアックのほうが上だった印象があります。


また。その頃は、インターネットの黎明期でもありました。お隣の州の大学でネットスケープという名前のブラウザとかいうものが発明されてました。それまでは自分でテキストベースのみで1行ずつしか検索結果を表示できなかったのに。ページとして表示されるし、しかも自分でページを作ることができるんです。背景は灰色のみ。そこに文字だけが表示されていて、青色になっている部分の文字列をクリックすると、別のページにとぶみたい。すごーい。しかも、これ、自分の作ったページも検索対象に入るみたいだよ。電話帳みたいに、どこかに登録しておくと見つけてもらえるのかな?いや、ヘッダーのタグにキーワードを入れておくといいみたいだよ。と、ジョンと夢中になって延々と翻訳会社のホームページ作りに没頭してました。

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